ことばの愉しみ

最近面白い映画みたよー。

 

マダム・イン・ニューヨーク [DVD]

シャシは、二人の子供と夫のために尽くす、ごく普通の主婦。彼女の悩みは、家族の中で自分だけ英語ができないこと。夫や子供たちにからかわれるたびに、傷ついていた。姪の結婚式の手伝いで一人NYへ旅立つも、英語ができず打ちひしがれてしまう。
そんな彼女の目に飛び込んできたのは「4週間で英語が話せる」という英会話学校の広告。仲間とともに英語を学んでいくうちに、夫に頼るだけの主婦から、ひとりの人間としての自信を取り戻していく。

Amazonより)

 

言語をテーマにしたこの映画を観ながら、二つのことを考えました。

 

一つは、英語がなんと扱いの難しい、二面性を孕んだ言語であるか、ということです。

 

主人公のシャシは英語ができないという理由で、英語の話せる夫や娘からは一段低い存在に押し込められます。壮年で、社会生活をきちんと営み、料理の技能にも秀でているのに、こと英語が絡むこととなると子ども扱いされてしまう。庇護されるべき存在へと降格してしまうのです。それがどれだけフラストレーションのたまることか。分かる、分かるよシャシ。私も喋るの苦手だからその辛さは分かる。たかが英語が喋れないだけで、なぜこんなにも無力な存在にならないといけないのか。英語ってそんなにえらいのか。

 

英語スキルの有無がそのまま「力」の有無になってしまう、この面倒な英語帝国主義の世界に生きる人間として、シャシの感じるフラストレーションはまるでわが事のように感じられました。

 

その一方で、英語が話せることは発言権を得ることでもあります。英語ができれば、普段インドの片隅、小さな世界で生きているシャシだって自分の意見を外国のひとにぶつけることができるのです。誰の助けを借りずとも自分の選んだことばを使って。英語によって得られる可能性は、やはり捨てがたい。

 

そういう「英語」にまつわる諸々の描写にもいろいろと考えさせられるものがあるのですが、この映画で一番面白いのはもっと普遍的な部分。(どの言葉であれ)「言語」を学ぶ楽しさが鮮やかに描き出されている点です。

 

教室で新しい表現を習うこと、その表現を使ってクラスメイトと交流してみること、クラスメイトの考えを聞くこと。昨日できなかったことが今日できるようになること。

 

シャシの英語がちょっとずつ上達し、それに本人が気づいて達成感を味わうところを観るとね、あーやっぱり外国語学習っていいよな、美しいプロセスだよな、と思います。そうだ、私もそういうのが楽しくて勉強してるんだった。こういうところがいいなと思ったんだった…(忘れてた)

 

その点においては、英語だけでなく外国語が好きなひと全般に訴えかける映画だと思います。観てよかったよー。

 

(音楽もいいのでサントラをダウンロードしました。歌詞がヒンディー語タミル語でさっぱり分からないのですが、英訳と対照させながら「あ、これがheartにあたる単語なんだろうな」と見当をつけつつ聞いています。そういうのも楽しいよね)

Mothers Aren't Alright

ある女性作家が新聞で子育ての問題について語っていました。

 

 

出産後、育児・家事・仕事全てに完璧を期すあまり産後クライシスに陥った体験を糸口に、明日の選挙で政治家たちに何を期待するか、という話へと展開しています。

 

 

 

特に興味深く読んだ箇所。

 

待機児童数を減らす政策ばかりが報じられ、もちろんそれも重要ですが、母親たちを苦しめている根っこは、家事と育児は女性の責任という意識では? 社会的にも、そして厄介なことに、女性自身にもその意識が染み込んでいる。私もそのひとりです。

 

え!彼女ほどのひとでもそんな意識が、というのが正直な感想。あの、芥川賞受賞時に「めさんこうれしい」というコメントを残し、かつて浮気されたときに彼氏の部屋をケチャップまみれにしたという逸話を誇る彼女でもこう思ったなら、いわんや普通の女性においてをや、ってとこです。

 

 構造的問題も大きいでしょう。長時間労働が当然の企業風土。シッターや掃除などの外注サービスの利用が可能なのは一握りで、多くの女性労働者は非正規職。安く使い倒されている。くじけそうになる人たちが増えても不思議はありません。

 

 

長時間労働が美徳とされる職場に勤めながらの子育ての難しさは、私もそういう環境にいたので色々と思うところがあります。身近に知ってる例では、定時過ぎて保育園にお子さんを迎えに行くため退勤したら、男性たちに「女はいいよな。早く帰れて」と陰で罵られた女性がいました。はたまた今度は同性の同僚に「子どもも仕事も両方手に入れようとするなんて虫がよすぎる」と嫌味を言われた人もいて。子育てと仕事の両立ってハードルたけーな、とげんなりしました。常勤の立場に戻る気になれない大きな理由の一つです。

あなたが命をかけて教えてくれたこと

みんな聞いて。翻訳の勉強についてなんだけどね。

 
 
誤訳しまくりで涙目。
 
 
授業の始めに返却された自分の原稿をみたら、致命傷をいくつも受けていました。真っ赤な血に染まっちゃってさ…もう息も絶えだえ。駆け寄って抱き起こしたら「あたいはもう駄目だから、あんただけは逃げて…」って呟いてました。ダメなのは私の方だよ。それなのにお前を置いて一人逃げられるものか。
 
しかし誤訳は恥ずかしい。ひとの翻訳で誤訳を見つけたら「あらーこの人分かってないわぁ」と鬼の首をとったかのように得意になる私ですが、自分が誤訳を指摘されると(ただの課題とはいえ)この世から消えそうになります。この恥ずかしさ、かっこつけて歩いてたら「ストッキング伝線してますよ」って知らない人に教えてもらった時の気持ちに似てる。いや、もっとかな。チャック開いてたレベルかな。
 
そうは言っても、誤訳をする時はだいたいパターンがあることも分かってきました。どういう時にやらかすか、というと、小さいけれど大事な言葉をおろそかにしてしまってる時です。冠詞、所有格、数、前置詞。「まぁだいたい意味分かるわ」と思って、こういう言葉に注意を払わないでいると罠にかかります。そして思い込みの上に思い込みを重ね、立派な誤訳が誕生するわけです。
 
誤訳した箇所は論理的におかしいので、自分で読んでても「?」となります。しかし大抵、「?」が浮かぶのがあまりに一瞬なので無意識のうちに「ま、いっか!」と流してしまいます。これが問題。「?」をきちんとキャッチして「なんかおかしいよおおお」と警報を鳴らせるようになれば、誤訳がなくなるのでしょう。言葉に気をつけると同時に、この自己批判能力も磨かねば。
 
さて、致命傷を受けた私の原稿ですが、末期の水をとってあげながら訊きました。何か最後に伝えたいことはない?って。そしたら、「同じミスは繰り返さないで…」って。
 
分かった、それだけは気をつける、と言うと安心したように微笑んで目を閉じ、そのままこと切れましたとさ。とっぴんぱらりのぷう。
 

あらゆることの極意

特技はなんですか。

 
ある小説の主人公はこの問いに対し「縦列駐車」と答えていました。自虐的だけどユーモアのあるキャラクターによく似合う回答だな、と記憶に残っています。
 
さて、同じ質問に私が答えるとしたらどうしよ。どうしよ、といいつつ、答えは一択なんですが。それは食事の支度が速いこと。15分あれば一汁二菜を用意できる。密かにファストフードの達人を自負してます。
 
その話をすると、知り合いの働く女性たちから速さの秘訣を尋ねられるのですが、残念ながらそんなものはありません。強いていえば、下ごしらえをまとめて済ませておくことかな…。根菜を一度に多めに蒸しといて、都度下調理する手間を省くとかね。あとは時間がある時にお肉をタレにつけて冷凍しとくとか。定番だね。
 
そうはいっても、達人の立場から一つだけ、極意をお伝えしたいと思います。それはあまり力を入れて献立を考えないことです。
 
「私ごはん作りに時間がかかっちゃって」っていう人の話を聞くと、だいたいメニューが唐揚だったりハンバーグだったりします。そりゃ大変だ。時間がかかるはずだ。
 
私はそんな手のかかるものは休日暇な時にしか作りません。平日は肉か魚焼いてりゃいいわ。力抜きまくり。
 
いや、しかしこれこそが極意なのです。ほら、バッティングでも「力まず自然なスイングを心掛けて」とかいうじゃない。
 
だから抜かなきゃ。手を。
 
(あれ!?)
 
 

秋の朝はつれづれ

11月ですね。月が変わったせいか、気力が蘇ってきました。早起きしてパン屋に行ったら、セールしてて三百円の得。

 
パンをもぐもぐした後は、久しぶりにチェーンのコーヒーショップにやってきました。パソコン持参で。休日の隙に仕事の準備をすすめて、貯金を作ってやろうという魂胆です。
 
祭日って、1日分仕事が減るのに1日分貯金が作れるから最高。トータルで2勤務日分得してる。
 
でもさっきから、目にチラチラ光が入って痛い。何かと思ったら、窓際でタブレットを使ってるお兄さん。そのタブレットがレフ板のように太陽光を拾って反射させているのです。こりゃちょっとした武器になる。今度からこの店に来るときは遮光板がいるわ。ついでに黒点観察でもするか。しないか。

やっぱり目が離せない

月曜日のお楽しみ、といえばNHKで放映される『赤毛のアン』を観ることです。特に春夏の間は、セ・リーグの試合がない寂しい夜を彩ってくれる貴重な娯楽でした。

 

去年『赤毛のアン』自体はイマイチで、続編の方がいいと書きましたが、謹んで訂正します。あらためて、『赤毛のアン』はすごい。アンの行動と発言があまりに突飛で、すげーヒロインだなと毎回テーブルを叩いて喜んでいます。だって、突然「いつか親友のダイアナが私をおいてお嫁にいってしまう…!!」って泣き崩れたりするんだよ。ちなみに御年13歳のことね。何食ったらそういう発想になるわけ?

 

ところで今日図書館で、『赤毛のアン』をフェミニズムの観点から批評した研究書(?)を手にとりました。結論からいうと、アン・シリーズがこてんぱんに批判されていました。若い子がいうとこの、ぼろかすってやつです。一度は文学的野心を持ちながらも、結局は家庭を守ることにアイデンティティを見出した、アンの保守的な一面ばかりを強調した論評でした。

 

しかし、その一面をもってして作品全体を断罪していいものか。私もフェミニズムは大人のたしなみと思っている類の人間だけど、その主張には首を傾げました。アンって一生懸命保守的な世界に馴染もうとしても、どこかしら社会からズレてしまう、持って生まれた先進性(異端さ?)があると思うんだけどなぁ。

 

たしかに保守的なとこがあるのは否めません(前に書いたように、戦時下でみせた激しい愛国心には戦慄しました)。結婚観も保守的かもね。そういう時代だしね。でも、そういう時代にアンぐらい突飛なキャラクターが創出されたこと自体が革新的と思います。

 

この間放送されたエピソードなんか、とうとう髪を緑に染めちゃってね。「もう私の人生は終わった…」て嘆いていました。海から引き上げたばっかりのワカメみたいな髪を垂らして。手を叩いて笑ったわ。

 

ノーラ・エフロン作品以前に、ブリジット・ジョーンズ以前に、こんなに笑えるヒロインがいたなんてすごい。お前はほんとに頭がぶっ飛んでるな、アン。身内にいたら迷惑だと思うわ。 

前科者の色彩

学校の課題で、小説の一節を訳すことがあります。いちから書くわけではないけど、創作の楽しみがちょっぴり味わえるので、私はこの課題が大好きなのですが…。

 

最近課題として渡されたのは、ニューヨークを舞台にしたハードボイルド小説。辛い過去を背負った寡黙な探偵が主人公の、男くさい話なのです。

 

それをもらって、オッケイオッケイと訳を作ってみたのですが、読み返すと何かおかしい。とくに会話文がおかしい。ヤク中の前科者が登場するのですが、彼のセリフが全然ハードボイルドじゃない。むしろフェザータッチ。

 

あれれと思って原文を読むと、俗語と文法規範を外れた言葉づかいで、ちゃんと前科者らしく描かれているのですが、それが私の訳では表現されていないのです。語尾も「~だよね」みたいな感じで(いや、さすがにそこまでではなかったかも)、わりと善良で小市民のおっちゃん。今までにおかした犯罪は、せいぜい八つの時に駄菓子屋で万引きしたくらい、という風味なのです。殺人なんて、とてもとても。

 

いやー、だって私、ニューヨークの前科者がどんな喋り方するか知らないし。だって普段読んでるのはオースティンとかブロンテとか、ドラッグから遠く離れた世界にいる作家の小説だからね。探偵ものでも、ミス・マープルとか。

 

その中で一番悪そうなのは、『嵐が丘』のヒースクリフですが、彼じゃダメなんです。確かに彼もひとを陥れ殺してましたが、もっと大都会の悪徳のイメージが必要なんです。羊がほっつき歩いてるムーアの情景を背負っちゃダメ。

 

仕方ないので、適当なハードボイルド小説を参考に読んでみました。でも、悪役のセリフってなんかこっぱずかしい。「分かってるぜ」とか「かもしれないぜ」とか、私の手に負えないワイルドさです。「おったまげた」って表現には、こっちもおったまげちまいました。これ今世紀でも使っていい表現?廃語?

 

今回のことで、多様なキャラクターを表現するには、多様な「声」が必要なんだーと悟りました。3歳の子どもの声、中間管理職のおじさんの声、修道女の声、米寿を迎えたおばあさんの声。私にはまだ一種類の「声」しかないので、色彩豊かなこの世界を描く能力がまだ備わっていません。そりゃ、始めて半年だからね。

 

これからはなるべく様々なジャンルの本を読んで、「声」を採取しようと思うのですが、さしあたってこの課題はどうすればいいのか…。

 

とりあえず前科者になりきることにして、唇をひんまげてちょっと卑しい表情を浮かべながら訳しなおしました。タバコの代わりにフリクションのペンをくわえて。ときどき、げへへ…って言ってみました。なぁおまえさん、げへへ、って。前科者じゃなくてただの馬鹿ですが。