それでも分かりあえるかな

週末、講演会を聴きにいってきました。

 

話し手はバリッバリ活躍されてる有名な児童文学翻訳家。サイン会もあるということだったので、私も子どもの頃からの愛読書を携え気合を入れて行ってきました。どれくらい気合を入れたかというと開場(開始ではなく)の15分前には受付に並んでたほどです。それでも20番目でしたが…。それだけ人気のある著名な翻訳家の方でした。

 

異文化と海外文学をテーマにした講演だったのですが、ひとつとても印象に残ったところがありました。それは異文化に触れることがなぜこんなに面白いのか、というお話です。日本の文化レベルも高いから、自国の文学・音楽・映画を楽しむだけでも充分といえば充分。それなのになぜ外国のものに惹かれるのか。

 

それは異文化交流によって二つの経験が可能になるからだ、というのが講演者の弁でした。

 

一つ目は、異なる世界の存在を学べること。たとえば、海外には羊の頭がごちそうとしてばーんとテーブルに供される文化があります。へええー羊の頭なんかをね!と驚いてしまいますね。どうしよう、ディナーに招かれても私には食べられないかも知れない。ちょっと日本とは感覚違うわー。その「違う」ってことに好奇心をくすぐられます。

 

そして更に面白いのが、そんなに違う文化に生きる私たちだけど、意外と分かり合えるものがある、ということです。羊の頭を食べない私たちだって、居酒屋で鯛のお頭がつまみに出てきたら、わーいごちそうが来たよ!って喜びます(たしかに魚は頭部がおいしい。漁師さんも言ってた)。それは、外国の人たちが羊の頭を見て覚える感覚と似ているのでないか。

 

 この「違う・それでも分かる」のセットを経験できるのが異文化交流です。

 

 (そしてこの体験を通じ「そういや日本も生き物の頭食べるよな」と気づくことで、自国文化の認識も深まります。ゲーテのことばに「外国語を知らないものは母国語をよく知らない」というものがあるそうですが、同じことがここでも言えるのかもしれません。外国の文化に接触しなければ、母国の文化の姿だってよく見えないのかもしれない)

 

「違う・それでも分かる」。この「それでも」の部分がとても好きです。「異なるバックグラウンドを持つ私たちだけど、でもあなたのことちょっとでも分かりたいな」という人類の心意気を感じ取れるからです。それってかなり健気で、とても前向きな姿勢です。バラバラの言語を使って暮らす私たちですが、それでも世界がつながりあっていられるのはこの姿勢のおかげかもしれません。

 

この翻訳家のひとの目を通して捉えなおしてみたら、読書という行為がとても魅力的に感じられました。ちょっとな、ファンになっちゃったな。本に書いてもらったサイン大事にしようっと。「~さん」って宛名も書いてもらったしご満悦。ひゅー。