そこかしこのフラニー

最近『フラニーとゾーイ』の新訳を読んでいました。

 
ライ麦』が大人になれない文化系男子のバイブルであるならば、『フラニー』は同じく文化系女子の心の拠り所です。ご多分にもれず私も大学生のとき何度も読みました。その結果どんどんナイーブな気持ちになり、ますます人生に迷っていったのですが…。
 
今回読み直したら、当時の気持ちが蘇って感傷的になりました。あーここでフラニーに共感したよな、厚かましくも、などと思いながら。まるで卒業アルバムをめくっている時のようです。ノスタルジーにひたってしまいました。
 
その一方で、今回初めてこの本を読みつつちょっとイライラしてしまったり。フラニーもいい加減部屋から出てこいよ、と思ってしまいました。もっと悩むべきことがあるだろ、社会制度とかさ!と。そしてそう考えた自分にショックを受けました。いつの間にか二十歳前後の繊細さに共感するセンサーが錆びついてしまったようです。
 
 
 
 
 
そういやこの本の存在を教えてくれたのは、鷺沢萠の「東京のフラニー」という短編小説でした。フラニー同様自らのエゴに苦しむ女の子が、自分の世界の狭さを知る物語です。この小説がとても好きで、これに引っ張られて本家にも手を出してみたんでした。
 
その鷺沢萠が亡くなってもう10年が経つことに今気づいて愕然としました。高校生の頃この人の本に読みふけり、この作家に憧れて外国語学部に進学したくらいだったのですが…。
 
偶然にも明日が命日だそうです。今夜は「東京のフラニー」を再読しよう。人生に迷ってたころの痛みを忘れないように。