ことばの毛布にくるまって

最近ちょくちょく、雑誌がノート作りの特集をしているのを見かけます。昨日もある女性誌が人生ノートというものの作り方を巻頭特集に掲げているのが目に留まりました。日々の出来事や将来なりたい理想像をノートに記録することで人生を豊かにしよう、というコンセプトのようでした。

 

ここしばらく、記録を残すこと、しかも言葉を使って記録することの重要性をよく考えます。頭の中のぐちゃっとした抽象的な思考を、言葉に置き換え更に文字という「物」にして残す。それは具体化の作業です。そして抽象的なものと形を持ったもの、どちらが記憶に残りやすいかというと、それは圧倒的に後者の方なのです。

 

言葉はそれ自体力を持っています。「言霊」のような宗教的な概念は信じていませんが、言語学を学んだときに知った「言語が思考を規定する」という考え方はある程度正しいのではないかと思います。人間の思考は言語に引っ張られ大きく影響されます。それはキャッチコピーやキャッチフレーズが私たちの消費行動をどれだけ刺激するかを考えても明らかです。そして多くの洗脳の例が言葉を通して行われることも例証となるかもしれません。ある学校の先生は、教育にあたるときいつも言葉の選択に細心の注意を払うと言っていました。「否定的な言葉は一生こどもの心を傷つけ続けるからね」と。

 

しかしこの世にあふれる言葉の多くのなんとネガティブなこと。特に人間が互いにかけ合う言葉のなんと消極的なこと。家庭で、もしくは学校で、あるいは職場で。(真実愛情のこもった叱咤激励の言葉は別にして、)私たちはたくさんの場面で否定的な言葉を投げつけられるし、その否定的な言葉に操られます。思慮のない親に醜いと言われた子どもが、自分が醜いと信じ込んでそのまま成長してしまう。そういう小さな悲劇が世の中には数え切れないほど存在します。私もその言葉ゲームの参加者の一人であり、被害者になったことも加害者になったこともあります。

 

だからこそ、自分で言葉をつむがねばと思うのです。それも、実感を伴った、できるだけよい言葉を使って。そうして、自分の内外から聞こえてくる否定的な言葉から身を守る術にしたいのです。過去に投げつけられた言葉がこれ以上自分を傷つけないように。これから投げつけられるかもしれない言葉を跳ね返せるように。